「ありのまま」って何?

超雑感。書きなぐり。

昨日、2月4日のカウンセリングはかなりショックだった。

ああ、もうこの場は自分が来るべき場所じゃないんだなとさえ思った。

先生の持つ「ありのまま」という固定観念を押し付けられたな。という印象を持った。

子どものころに抑圧された記憶がフラッシュバックして結構メンタルやられた

何でも人よりできる、頭がいいという人の悩みは、基本的に多くの人から承認されないことにある。出る杭は打たれるの言葉ではないけれど、やはり打たれるのだ。

できることを賞賛して承認してくれる人がいないわけではない。がやはり少数であるし無条件ではない。大抵の人は「できない」「普通」であるから「できる」人のことを理解してはもらえない。

人と人とは分かり合えないということを言われたらそれまでだが、「できない」人は、その無知の知が無いのだ。

その場合、多くの人が抱く感情は大きく2パターン。

・妬み嫉み

・過度な期待

である。

前者はそのまま「できる」ということに対するルサンチマン。

「普通」あるいは「できない」人同士の方が多数派であるため、数による排除が行われる。優等生というだけで、クラスではむしろいじめの対象になったりする。

後者は、主に上の立場の人に多いが、「キミはできるのだからもっと努力をして上を目指しなさい」「将来は大物になってくれよ、期待しているよ」といったプレッシャーをかける場合だ。

前者を回避するために、子供の自分は、3枚目を演じたり、バカな笑いを取るようにしたり、あるいは出来過ぎないように、あえて手を抜くようなことをした。

もしくは上を目指すことを放棄した。それによって、クラスになじめない。ということは無かったが、本来の自分は出せていないような気がして、本当に心を許せる友達はいなかったように思う。

これを実践することで、必然的に後者の期待も和らぐので、そのバランスを取るために必死だったかもしれない。

後者の要望に応えるためには、力がありつつも、他社から承認されないという孤独に耐えて、確実な結果を残し維持し続ける、本当の天才になる必要があるし、何かの分野で特化している場合ではないと難しいと思う。ジェネラリストタイプにとっては結構ハードルが高いのだ。

まあ、そういった事情の中で、とりわけ、今でもずっと印象に残っているのは、小学校の6年生だかで図工の時間の版画を提出したときだった。

確かお題は、思い出といった感じだったと思う。ざっくりとしたこと以外は自由なテーマで良かったはずだ。

その時は丁度冬で、夜空を見上げた時に冬の大三角が綺麗だな、というのがちょうど感動したテーマだったので、自分自身が星空を見て、感動しているような様子を彫った。

それを提出したら、先生に「子供らしくないな、もっと正直に思ったことをテーマにしなさい」といったことを言われてやり直しをさせられたことだ。

それは本当に自分がその時心から感動したテーマだったのに、それを否定されたことがショックだったのは覚えている。

仕方なく、今度はみんなで「けいどろ」をして遊んでいる様子を版画にしたら、「今度はよくなったな」と、褒められたので。その年齢らしい視点に合わせなければ、承認は得られないのだな。ということを学んだ。

そこから中学~高校ぐらいは、上の中くらいの成績を維持しつつ、まあ受験本番は結構気合が入って、北海道1の進学校で、入試の成績が学年2番ということで、1番だったら危うく新入生代表挨拶をさせられてしまうところだった。

という危険はあったが、まあ、生粋の天才でもなかったので、その辺は良かったのかなと思う。

ところで、ドラえもんの話をしておこう。

出木杉君というキャラクターは、ドラえもんを知っていればいくらチョイ役でも知っていると思うが、彼が、映画版で登場したとしても、決してのび太たちの仲間になって一緒に冒険することは無い。

理由としては、彼は頭が良すぎるために、彼とドラえもんの秘密道具があれば、どんな困難もひとりで切り抜けてしまい、お話にならないということがあるが、出来過ぎるキャラクターは「普通の」いわゆる「多くの」人の共感を得られないというところが大きいだろう。

他のどんな物語であっても、たとえ主人公が俺TUEEEE系の主人公であっても、どこか弱点があって、そこが共感できるポイントでなければお話にならないのである。

もちろん弱点の無い人間なんて存在しない。だから「ありのまま」というのは弱点をさらけ出すことでもある、というカウンセリングの先生の考え方は正しいのかもしれない。

ただ、その弱点が「できすぎる」ことであった場合はどうなのだろう。

昨日は、自分の心の枷がなくなって、ありのままの自分をさらけ出せていたつもりであった。そして、その時の弱点が「全能感」だとしたら、それは弱点のはず。

その弱点を、一般的な「ありのまま」の価値観によって、逆に封じ込められたような気がするのだ。

全能感があってもいいじゃない。

それがたとえ「普通」の人からは承認されないような弱点だとしてもいいじゃない。

今は、その承認すら必要としない。分かる人だけに分かってもらえればいいという、小学生の時に封じ込められたはずの、本当の「ありのまま」でいられる自分を手に入れられたというのに、それはやっぱり駄目なことなのかと思って、その時の記憶がフラッシュバックしたのだ。

そしてそれによって、一時的にとは言えメンタルがやられた。

ということはやっぱり確かに弱点なのだろう。

でもその弱点に気づいて、ちょっと寝ればこうしてまた自分を客観視して、自分を分析し、すぐに立ち直るだけの自分の軸を手に入れたのもまた事実。

この全能感、自分ができる感覚を、これから先も手放さないようにしなければ、自分の本来の力は発揮できないと思うし、それこそ20年以上にわたって封印してきた感覚をいまやっと解放できているのだから、せめて、お金を払って、自分をさらけ出してもいい場だと昔言ってくれたカウンセリングの時間くらいは、それを出してもいいのだと思っていた。

やっぱり、いくら全能感があると言っても、社会で生きていくためには、それをある程度コントロールしなければいけない。

他の人の立場は理解しつつも、社会で自分の力を最大限に発揮できる場を見つけ出すこと、それ自体も、自分の「できる」能力のひとつなのだから、普段、全能感を全開にして、自分の表現を生かしきれないというのなら本末転倒、それくらいのコントロールはしているし、できていなかったとしても、過ちに気づいて修正する能力を持っている。

そしてもちろん、それには多大なエネルギーを消費することであるし、どこかでストレスを発散したりする場が必要だ。

それを手に入れるのが中々難しいから、お金を払ってカウンセリングという場を作るのもその手段のひとつであったのに、その場が急に失われたことによって、ちょっと計算がくるってしまった。

このカウンセリングの場が、「弱み」とはこうあるべきという先生の(普通の?)価値観の元、ありがちな「ありのまま」を表現、演じなければいけない場だとしたら、もう今後はお金を払ってまで来る場所じゃなくて、卒業するべき時が来たのかな。と思う。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする